メジャーリーグベースボールの歴史に名を刻む、伝説の外野手ウィリー・メイズ。彼の名前を耳にしたことがある方でも、その実績や背後にあるストーリー、そして彼が歩んできた道を深く知る人は少ないかもしれません。
この記事では、ウィリー・メイズの映画を通して彼のキャリアと生い立ちを探ることで、その卓越した才能と人間性に迫ります。
ウィリー・メイズは、多くの人々にとってただのスポーツ選手以上の存在です。彼はアメリカのスポーツ史において最も偉大な選手の一人として、数々の記録やタイトルを持つだけでなく、そのキャラクターやプレイスタイルで多くのファンの心をつかみました。特に、彼の伝説的なプレイ「ザ・キャッチ」は、歴史に残るファインプレーとして語り継がれています。
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ウィリー・メイズのストーリーは、ただの成功物語ではありません。
彼のキャリアは、多くの困難や挑戦、そして時には社会的な問題とも向き合いながら形成されてきました。彼の生い立ちや、黒人としての彼がどのようにメジャーリーグで成功を収めてきたのか、その背景にはどのようなストーリーがあるのか、詳しく知りたい方にはドキュメンタリー映画「Say Hey, ウィリー・メイズ!」がおすすめです。
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ウィリー・メイズ|幼少期とその生い立ち
ウィリー・メイズは、多くの野球愛好者から野球史上最高のオールラウンドプレイヤーと称されるほどの才能を持つ選手として知られています。その彼の背景や生い立ち、初期のキャリアについて、ここでは詳しく紹介していきます。
ウィリー・メイズのプロフィール
名前 | ウィリー・ハワード・メイズ・ジュニア(Willie Howard Mays Jr.) |
愛称 | 「セイ・ヘイ・キッド(The Say Hey Kid)」 |
生年月日 | 1931年5月6日 |
出身地 | アメリカ合衆国アラバマ州ウェストフィールド |
身長 | 約180cm |
体重 | 約81kg |
投球・打席 | 右投右打 |
幼少期の背景
1931年、アメリカ南部のアラバマ州にウィリー・メイズは生まれました。彼の家族背景は、スポーツにおいて非常に豊かで、父のキャット・メイズは地元の製鉄所の黒人チームに所属する野球選手であり、その才能は息子にも受け継がれました。一方、彼の母、アニー・サターホワイトは高校時代にバスケットボールと陸上のスター選手として活躍していたと言われています。
1930年代のアメリカと黒人差別の背景
1930年代のアメリカは、経済的、社会的に大きな変動の時代でした。大恐慌による経済の崩壊が国を揺るがし、多くの人々が仕事や生計を失いました。しかし、この経済的な危機は、社会的な格差や差別をさらに浮き彫りにすることとなりました。特に、黒人コミュニティは、この厳しい時代にさらなる試練と困難に直面しました。
南部の州では、ジム・クロウ法に基づく制度的な差別が継続しており、黒人は白人とは別の学校に通い、公共の場でも分離されるなどの不平等な取り扱いを受けていました。また、リンチや暴力の脅威も日常的に存在し、黒人の権利や生命が脅かされる状況が続いていました。
このような社会的背景の中で、スポーツは多くの黒人にとって希望の光でした。特に、野球はアメリカの国民的スポーツとして人気があり、多くの黒人選手が才能を発揮していました。しかし、メジャーリーグベースボールは白人のみのリーグとして維持されており、黒人選手はニグロ・リーグでのプレイを余儀なくされていました。
ニグロ・リーグでの活躍とジャイアンツ入団の経緯
1948年、ウィリー・メイズはニグロ・アメリカン・リーグのバーミンガム・ブラック・バロンズに入団しました。高校生でありながら、彼のプレイはリーグでも際立っており、特に守備や打撃の技術は非常に高く評価されました。ホームゲームに限り出場しながらも、彼の存在はすぐにリーグ全体で知れ渡ることとなりました。
その抜群の実力は、メジャーリーグのスカウトたちの目にも留まりました。そして、彼の才能はニューヨーク・ジャイアンツにも認められ、1951年にジャイアンツと契約を結ぶこととなりました。これにより、ウィリー・メイズはメジャーリーグベースボールでのキャリアの第一歩を踏み出すこととなり、その後の彼の偉業へと続く道が開かれました。
メジャーリーグでの輝かしいキャリア
ジャイアンツでの初期の活躍とワールドシリーズ優勝
1950年(19歳) | ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)との契約を結ぶ。 |
1951年(20歳) | AAA級ミネアポリス・ミラーズでの短期間の活躍の後、5月25日にメジャーデビュー。シーズン途中からの加入ながらも、その才能を見せつける。 |
1951年(21歳) | 朝鮮戦争による従軍のため、一時野球から離れる。 |
1954年 (23歳) | 野球への復帰を果たし、打率.345で首位打者に。41本塁打と110打点を記録し、MVPを受賞。ジャイアンツはワールドシリーズで優勝。 |
ウィリー・メイズは、ジャイアンツでの初期のキャリアで、短期間の中で驚異的な成果を上げました。特に1954年の活躍は、彼がメジャーリーグのスター選手としての地位を確立した瞬間とも言えるでしょう。
MLBで語り継がれる伝説的なプレイ『ザ・キャッチ』
「ザ・キャッチ」とは、1954年のワールドシリーズ、ジャイアンツ対インディアンスの第1戦でメイズが見せた奇跡のキャッチを指します。
球場のポロ・グラウンズは、もともと1876年にポロ競技用として作られた球場で、その特徴的な形状から、センターバックがなんと147mもの深さを持っていました。これは、当時の他の球場と比較しても非常に広大なものでした。そのため、ここでの守備は非常に難易度が高く、センターの守備選手には特に高い技術とフィジカルが求められました。
2対2の同点で迎えた試合の8回表。打席に立ったビク・ワーツは、彼自身が「人生で最高の当たり」と後に語るほどの強烈な打球をセンターバックへと放ちました。この打球を見て、誰もがインディアンスの勝ち越しを予想したその瞬間、ジャイアンツのセンター、ウィリー・メイズが登場します。彼は全速力で後ろへと走り出し、驚くべき技術で肩越しにボールをキャッチ。このプレイは、野球史上でも最高のプレイとして称賛され、その名を「ザ・キャッチ」として後世に伝えることとなりました。
メッツへの移籍と引退
ウィリー・メイズは1972年にニューヨーク・メッツへの移籍という新たな章を迎えました。サンフランシスコ・ジャイアンツは球団がサンフランシスコに移転する前はニューヨークにあったため、メイズはニューヨークに戻る形となりました。
メッツでの初年度、彼のプレイの魅力は健在でしたが、その数字はジャイアンツ時代と比較すると少し影を潜めていました。しかしながら、1973年には彼のキャリアで660回目となるホームランを放つなど、存在感を示しました。
しかし、このワールドシリーズを最後に、メイズはそのキャリアに幕を下ろすことを決意します。
ウィリー・メイズの人間性と影響
マイノリティの社会進出を後押しする姿勢
ウィリー・メイズは、自身も黒人としての困難な状況を乗り越えてきた経験から、マイノリティの社会進出を強く後押ししていました。彼はその立場を利用して、多くのマイノリティに希望や勇気を与え、平等な権利を求める声を上げ続けました。
政治的発言を避ける姿勢とその背景
一方で、ウィリー・メイズは公の場で政治的発言をすることを避けていました。これは彼がスポーツと政治を分ける考えを持っていたためであり、また、その時代の社会的背景や、彼自身が経験してきた差別などの経験から、発言には慎重であるべきだという考えを持っていたと考えられます。彼のこの姿勢は、多くのファンや関係者から共感されていました。
ウィリー・メイズの影響を受けている選手たち|背番号『24』
ウィリー・メイズは、その卓越したプレイスタイルで多くのファンや後続の選手たちに影響を与えてきました。
サンフランシスコ・ジャイアンツは1972年5月12日に、メイズの背番号「24」を永久欠番として認定。そして、2022年8月27日にはニューヨーク・メッツも同じ背番号を永久欠番として認定しました。メイズ自身も、これらの都市での認定を「非常に光栄」とコメントしています。
リッキー・ヘンダーソン、ケン・グリフィー・ジュニア、ミゲル・カブレラ。これらの名前は、メジャーリーグベースボールの歴史に名を刻んだスター選手たちですが、彼らには共通点があります。それは、背番号「24」を選んだこと。彼らがこの番号を選んだ背景には、ウィリー・メイズへの敬意があります。
ウィリー・メイズの足跡は、彼の後を追う多くの選手たちによって、今もなおMLBの歴史に深く刻まれ続けています。
【まとめ】ウィリー・メイズ/メジャーリーグに残した足跡
ウィリー・メイズはメジャーリーグ史上最高の外野手と称され、背番号「24」は2つのチームで永久欠番となりました。
黒人差別や朝鮮戦争への従軍など、彼のキャリアには困難が立ちはだかりましたが、数々の記録に加え、伝説のプレイ「ザ・キャッチ」は今もなお語り継がれるほどの逸話として、歴史に刻まれています。
本記事では、そんなウィリー・メイズについて深掘りし、与えた影響について解説してきました。
元々ウィリー・メイズを知っていた方、そうでない方も、今一度この伝説的なプレイヤーについて知る機会を持ち、彼の偉業や人間としての魅力、そして時代背景との関わりについて深く考えることができたのであれば幸いです。